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    わざわざ何者でもない自分になる必要があるのか。

    ブログ 散文

    この考え方は間違っていると思うので、エントリを書く

     どちらかというと、タイトルよりエントリ内容の「何者でもない」人間になることに対する反論

     

    自分の願望を臆面もなく口にできるというのは人間が持ち得る最大の能力です。

    http://d.hatena.ne.jp/onoyokoyo/20130706/1373080349

     

    人気のある子、ない子、好かれる子、嫌われる子という

    のはもともと二つに分かれていて、自分は「入~れ~て」と言っても入れて

    もらえない側の人間なのではないかという不安を抱いているのです。

     まず、元エントリ主は嫌いな子は入れてもらえないということを書いている。そうであれば、願望を臆面もなく口にしても、入れてもらえない。

    もし、それでも入れてもらおうと他人に受け入れられるように自分を変えようとするなら、自分自身に嘘をつき、いずれ認知の歪みを生む。それをくりかえせば、嫌わてるか嫌われてないにかかわらず、嫌われてるのではないか、受け入れられないのではないか。という、疑念に悩まされるようになる。「何者でもない」人間でも同じだ。

     

    もし、「自分には入れてと言えばどんな集団にも入れてもらえる

    生まれ持った資質がある」というのを自信の根拠にするなら、その自信は初めて

    「お前なんか鼻につくから入れてあげない。」と言われた日に瓦解してしまいます。

    自信に満ちた人は、そんなグラグラした根拠をもとに生きているのでしょうか?

    つまり、「自信がある」というのは、失敗という結果があることを想定して、

    そのうえで「自分は何者でもないので失敗したところで失うものなどない」

    覚悟を決めて何かに挑戦できることを言うのです。

     

     

    もし、という仮定付きではあるが、何かを根拠に自身を持っている人はそんな些細なミスで瓦解してしまうような、薄っぺらい信念ではないし、根拠に足る努力をしてきた人なら、失敗することくらいは知っている。

    「何者でもない」とわかってる人が、何かを貫けるのだろうかという疑念がある。信念のある人こそ何かを貫けるのではないだろうか。

    では、ほんとうの自信は何なのかというと、自分など何者でもないという自覚です。

     カウンセラーによる「私は私のままでいい」という自己肯定感を得るのにも、性格や思考の癖を認識して、その過程で認知療法で認知の歪みを修正し、カウンセリングで自己肯定感を養っていく。何者でもない。というほどに、捨て去りはしないし、長所は自信として認める。自己肯定感と何者でもないことは違う。

     

    自己肯定感の低い日本人には、今ある自信を捨て、「何者でもない」というのを受け入れるには厳しすぎる。