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    「無敵の人」について

     

    「死刑になりたいから」といって人を殺す人がいる。秋葉原通り魔事件や附属池田小事件である。彼らは社会や、育てた親などに恨みを抱いていた。そして、「死にたい」と願っていた。

     

    永井均著の『これがニーチェだ』という本には、こうかかれている。「自分がいつ死んでもよいと思っているものに対して、いかなる倫理も無力である」と。

     

    倫理によって、犯罪を犯すことを防止するのは厳しいだろう。しかしながら、彼らも罰せられるという意味では、従順的な思想が伺える

     

    黒子のバスケ犯人による人生格差犯罪の解説

    http://blogos.com/article/85500/

     

    上の記事では黒子のバスケの犯人はこう述べているという。

    「全ての責任は自分にあります。そして、どのような判決を下されようとも、それを受け入れて控訴しないことと、実刑判決を受けて服役する場合には、仮釈放を申請せずに刑期満了まで服役することをこの場で宣言致します。」

     

    刑罰による責任はきちんととろうということである。社会に対してルサンチマンをだいていたのに。なんとも「お上」に反抗できない日本人的な思想がここにも出ている。

     

    刑罰による抑止力を考えた時はどうかという点で、公開死刑を行っていた19世紀は犯罪は少なくならなかったのであるし、抑止力にはならないだろう、いや、いろいろな意味での弱者を追い詰める制度になりかねない。

     

    死刑制度そのものも、国家による「殺害」を肯定しているし、匿名化されたネット社会においては「死ね」という言葉はあるところに行けば、いつでも見ることができる。日本社会は死を肯定する方向へかじを切っているように思える。生活保護叩きは以前にもまして顕著になっている。

     

    人身事故で電車が止まることに、深い感慨をいちいち持つものは少なくなったが、身近な「死」については、まだ現代人は敏感である。だが、いわゆる「村八分」している人に対しては社会はとても冷たいように感じており、自分の父方の叔父が亡くなった時も父方の親戚はとても冷たかった。

     

    育ての親が厳しかったりすることで歪んでしまって、犯罪するケースはとても多い。また、孤立した人間を助けるような制度もあまり進んではいない。行き詰まった人は、自殺するという内側への攻撃で、自殺という形で人生を終わらせているのが大半だが、外側に向かった場合、犯罪になるだろう。

     

    事件は個別の意図によってもたらせるであろうから、一般論では語りつくすことは無理だろうが、なんらかの共通性はあるだろう。事件をなくすことはできないと考えている。ハンムラビ法典やローマ法、その昔から刑罰によって犯罪はあったし、それだけ長い間あったのであれば、反体制・反社会的な何かはある程度は人間に内包されており、その芽がきえることはないと考えている。それが、犯罪的でない開花になるばいいもあるだろうし、犯罪になる場合もあるだろう。

     

    犯罪はなんらかのかたちでありつづけるだろうと考えている。

     

     

     

    秋葉原事件 加藤智大の軌跡 (朝日文庫)

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