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    「黒子のバスケ」事件犯人 について考える

    社会

    「こんなクソみたいな人生」 黒子のバスケ事件、被告が法廷で吐露した「負け組」の思い (1/3) - ITmedia ニュース

    に影響されて、自分なりの分析を試みた

     

    犯人は日本社会における「負け組」・「底辺」であると自負している。これに対して、諸外国の貧困層よりはましなのではないかという指摘があるが、そうはそうであるが、あくまでも「日本国内においての格差」を考える必要がある。それはなぜかというと、犯人が外国に言及したのは憧れたアイドルグループのメンバーのみであるからだ。

     

    「黒子のバスケ」脅迫事件第2回公判。渡邊被告のコメント公開(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース

    自分の意見陳述は誤解を招く非常に拙劣なものでした。ネット上の反応を見たのですが、自分に言わせれば全くもってトンチンカンな反応が多いのです。仮に現在がバブル時代のような好況下でも、政府が再配分に熱心でも自分は絶対に事件を起こしています。非正規雇用云々の話は動機には何も関係ありません。

     

    この文章によると経済理由ではないようだ。「人生格差犯罪」と自身で命名しているのにだ。では、何が原因で犯行を起こしたのだろうか。

     

    動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。

     

    「手に入れたくて手に入れられなかったもの」を全て持っている「黒子のバスケ」の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました。

     

    自分の人生に対し、無力感を感じていたのではないだろうかと思う。彼の人生のどこかの時点で、いわゆる社会的な成功に対する欲求が失われてしまい、その結果、努力による成功という考え方を破棄したのだと考えている。

     自分が考える原因はコミュニケーションができない人が陥る無縁社会で、犯人はコミュニケーションに飢えていたのではないだろうかと考えている。そう考えるに至った一文を引用する

     

    若い被留置者と話していて「こんなにかわいい弟がいれば、自分はやらかしていなかったろうな」とか「こんなに明るくて、カッコ良くて、ノリの良い友人が子供の頃にいたら、自分の人生も違っていたろうな」などと感じました。

     

    個人的にはコミュニケーション自体も市場主義社会と化していると考えている。昨日のエントリでも述べたが、

    はてなについて考える - tenku65820's blog

    人気あるものに注目が集中してしまい、小さなコミュニティーではもしかしたら何者にかなれていた可能性がある人が「何者にもなれない」ような人と化してしまったのではないだろうか。

    犯人はだいぶ知識力はある方だといえるし、何か他人の役に立つことができたのだと考えている。(犯人にとってそう言われたくないだろうが)

     

    彼のような人間に精神論で更正をうながすことは利益がないように思える。成功(努力)することすら、自分に禁止しているような価値観をもっているからだ。

     

    社会において「何者にもなれなかった」人間が、間接的な自己肯定感を得るために、自分の価値観や、イデオロギー、感情において、他者や団体などを批判し切り捨てるような「精神的勝利法」を行うことが「負け組」的な、「何者にもなれない」ものの中で、染み付いてしまったのではないかと考えている。

    犯人自身、両親や生育環境に責任転嫁する「精神的勝利法」を行うことで心の平衡を保っていた。

     

    陳述文作成の時点では、作家などで「負」を表現すること自体も拒否的な反応であるが、陳述文のような長文を書いている時点でどこかで表現したいという欲求はあるのではないかとおもう。服役すれば、ネットから遮断されるので、価値観も変わるかもしれないが。

     

    この事件でいろいろな社会の闇がすこし明文化されたと思う。犯人は陳述文などでネット社会に大きな影響を与えたのはいうまでもないだろう。その影響がどういう形で芽吹くかはわからないが。