反論的立場からのなぜ説明書を読まないかについて考えてみる

    なぜ世の中には、説明書を読まない人がいるのか? - 日々のメモ - アトランダムメモ

    について考える

     

     一応反論として書くが、質問ばかりされるid:guldeenの心境は理解できるものである。私もあるところでそうであるから。

     

    読字障害を抱えている

      この結論に至った一つは、作り手及び関わっているものしかわからない専門用語の多様が原因である。と考えている。

     

    id:t-murachi タッチパネルが家電や券売機などで使われ始めた頃は、ボタンに慣れていた年配の方が反応性の悪さに苦心していた。説明書は言葉の説明が不十分である場合も多く、「クリック」「ポップアップ」等は理解されにくい。

     

     テレビ等で一般大衆向けに表現されるのは、義務教育程度の語彙数である三万字から四万字までとされており、説明書についても同様に三万字から四万字で表現・説明されるべきだと考えている。

     

     また、専門用語(リンク先で用いられているもので説明が必要だと思われるものOS、バージョン、メモリーカード、デジカメ、ウイルス等)については理解していないことを前提とすべきであり、それについて説明すべきだと考えている。しかし、この問題を解決すると長文・冗長化される可能性があり、その結果説明書を読むことを嫌になる可能性がある。

     

    『設計における想定』

    「目の前のその機械は、およそどのような原理で動いているのか・何を故意に行なうと壊れるのか」

     

     このような思想において語っている(と思われる)以上開発者側に立っているのは明らかであり、ユーザ側の視点に立って設計できていないであろうことが推測される。

     

     

     人間に与えられた時間は有限で人によってはコンピュータあるいは携帯電話、その他製品を必要という理由、あるいは空気を読まざるをえないという理由で好まない状況で使用する場合が多数あると考えており、そのようなユーザは強い関心を持つことはできず、問題解決に費やす気力及び時間を減らしたいと思うであろう。

     

    「目の前のその機械は、およそどのような原理で動いているのか・何を故意に行なうと壊れるのか」

     

     開発者にとってはものすごい時間をかけて制作しており、上記のような関心度ということを想定しないだろうと考える。あるいは、ユーザと開発者・製作者の間に大きな溝がある。

     

     ユーザにわかりにくく、開発者や分野に詳しいもののみにわかりやすいな説明書を作成した場合、そのような説明書を読む機会が続いた場合、説明書を「分からないもの」だと学習し「人に聞く(Web上のQ&Aサービスを含む)」、「ぐぐって解決」、等は発生するであろうと考えている。

     

     また、少し飛躍ではあるが公式ドキュメントがありながら開発者向けのフォーラム・メーリングリスト等存在する以上、説明書で全て解決することは幻想であると考えている。

     

    自分のいま置かれた状況を客観的に理解できない・説明できない

     子の問題については、適正・不適正の問題を含んでいると考えている。コンピュータが普及してだいぶ経つが、あまりコンピュータに適正がないと思われる人を見かけることはある。理解するに十分な時間取り扱っているのにもかかわらず問題解決能力があがらないのだ。

     

     これについては、ある種の「運動神経」的なものと類似していると考えている。「運動神経」がよいものと、そうでないものが同じ時間、同じことに取り組んだ場合、大きな差が開く。

     説明を取り扱う「分野」にもよるがそういう適性的なものの差で人に聞かざるを得ないと考えている。私は運動能力が低いが、運動が必須な世の中が来たら絶望するだろうと思う。

     

     適性の問題がある以上、必要以上に「あることの問題解決能力の低さ」を批判し続けることは、消費社会において、生きるために消費し続ければならないので、授業において「運動神経」がない生徒を批判し続けるのと同じ問題、いやそれ以上の問題を引き起こしてしまうのではないかと考えている。

     

    思い込みが強い・学習意欲が弱い・皮膚感覚に頼りすぎる

      開発者・製作者もその開発者・製作者としての「思い込み」「皮膚感覚」にとらわれており、その責任をユーザに押し付けるべきではないと考えている。

     わかり易い例がある。一つはWindows8だ。これに関しては批判が多く、なぜ批判が多かったかというと、従来の感覚からの「思い込み」「皮膚感覚」からである。 Windows8の使用について、インターネット上で使いづらく、またソフトウェア開発者も使いづらいと感じているようであり、発売からだいぶ経つが、Windows8をサポートにいれていないソフトウェアもわりと存在する。「全ての点において」従来の「思い込み」「皮膚感覚」をユーザの責任にするのは酷だと考えている。

     できるだけ、使いやすかった物を使い続けたいという心が人間の信条であり、Windows XPの長期のサポート延長、また現在もWindows XPが使われ続けているということの証明になっているであろう。

     

     また、携帯電話界隈では開発者側のエゴというのも垣間見える。ガラケーからスマートフォンに移行させるために、ユーザに浸透しきれていない時点である早期にガラケーの廃止を検討し始めるなど、携帯電話という必須製品に対して明らかに開発者のエゴを押し付けられるような空気感や政策を推し進めており、その結果マクロな人間関係において、「質問する」等の問題が発生している。

     

     経済的な理由による消費の活性化や大量消費等、開発・製作会社及び政治的な政策からのエゴにより不利な立場にユーザは立たされているのではないかと考えている。

     

     このような開発者・製作者側・政治的意図等のエゴによって分厚い説明書を読み続けなければならないのは苦痛であると言わざるをえない。

     

    他人との意思疎通を、上下関係を通してしか解釈できない

     若干違う視点ではあるが、最近「非コミュ」なる単語が喧伝されており、内向的な人間にとってとても不利な状況に立たされている。内向的な人間も、外向的な人間も、能力的には同等であり、内向的な立場の人間が、「問題解決」を糸口としてコミュニケーションを他人と図るのは間違った戦略ではないと考えている。

     

     逆に外向的な人間が、内向的な人間に対してコミュニケーションを測るのに内向的な人間の得意なことに関して質問するという「問題解決」を糸口としてコミュニケーションを他人と図るのは間違った戦略ではないと考えており、また、上下関係的要素・カースト的要素・儒教的要素等も含めて「コミュニケーション論」と含めて考えなければならないため、この問題は表面に出ているのは氷山の一角でかなりこじれた問題なのではないかと考えている。

     

    以上、反論的立場からのなぜ説明書を読まないかについて考えてみたことである。