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    「良い音楽作品とは、論理的であること」に関する議論(吹奏楽系)

    なぜ、論理的な音楽について、違う視点があるかどうか、(訂正)※1というと、「プリミティブな衝動」ですね。ここでいうプリミティブ[primitive]は「原始的」と解釈したいと思います。

    テクニカル(論理的)なマクロ的なところからは、[「音楽の良し悪し」は存在するもの]だと思いますが、そのマクロの視点からミクロ(個人)に対して「プリミティブな衝動」を強くに否定しすぎることは、逆にテクニカルな「音楽の良し悪し」より、ミクロ(個人)の「プリミティブな衝動」による「音楽の良し悪し」を判断することを促進してしまうと思います。

    筋から離れてしまう例えですが、論理的に1+1=2は証明によって有効になっていると主張しても、プリミティブに、ある意地自然に1+1=2だと感じると思います。「1+1=2の証明」というのは学者や興味がある人だけがが読むべきものだと返されるでしょう。それがどんなに数学的美しさを放っていてもです。権威を振りかざすというのは、多寡な人を遠ざけます。

    「プリミティブな衝動」は幼稚だと上から目線で断罪なされるなら、論理的というある意味難解なものを多寡の人々は理解し演奏・作曲する気をなくし、自滅の道を進むことでしょう(そうなってほしくないので、「プリミティブな衝動」による「音楽の良し悪し」の判断を必要以上に否定してほしくはありません)。
    どんなに素晴らしかろうと、必要以上に他の物を批判すれば、個人的に嫌われる可能性があります。(訂正)※2そうならようにしないといけないのです。どれだけ、多寡な人間によって作曲され演奏されるキャチ―でポップな音楽が溢れているか自覚はしていると思います。違う手法・方法で広めることを考えて欲しいと私は強く思い願います。

    ※1
    訂正元:論理的な音楽は否定されるか。
    ※2
    訂正元:嫌われ、それを担う人間(演奏者・作曲家)がいなくなったら衰退します。
    注:ただし、個人がソーシャルメディア化した現在、その影響力はどれくらいなのか未知数であり、批判による炎上などによる被害によってのある程度の社会からの立ち位置として社会的評価の低下(ゴーストライター事件なども方向性によっては低下の可能性はありえた※3)がある可能性は否定出来と考えます。

    ※3
    訂正元:衰退

     

     

    返信

    ベートーベンはロッシーニの音楽を酷く貶していたそうですが、200年以上たっても余裕で残っていますよね。この事はどう説明されますか?
    この質問に答えられたら、残りのプリミティブ云々に関する私の見解をお伝えします。



    どういう意図でそのような質問をなされているか分かりませんが、答えます。
    ロッシーニの曲を演奏したい人がいたからですね。論理的である、ないにという問題以外に、人気や知名度という点でも演奏されるというのはありえます。
    またよく演奏される音楽は楽譜が書き写されるので残ります。(コピー機が発明(開発)されたのはだいぶ最近のことです)もちろん、有名な音楽家の楽譜は一般的に博物館や図書館、大学などで保存されているということもあるでしょうが。
    逆にベートーヴェンの弟子であるツェルニーはピアノ・エチュードばかりが演奏されるのみです。リストの師匠でもあるという音楽的な歴史的観点からシンフォニーを含めて楽譜は残っていますが演奏されるという意味では、ピアノ・エチュード以外は残っていません。全く演奏されないということではないですが。 

    Carl Czerny. Symphony No. 1 in C minor, op. 780 - YouTube


    論理というのはある意味、楽譜以外の部分も含めていると考えます。コラールをきちんと演奏するには聖書も理解しないといけないかもしれない。もしくは、キリスト教徒でなければ正当なコラールを演奏していることにはならないという解釈も可能だと思います。どこまで読めれば楽譜が読めるというのはかなり難しい問題です。音楽美学もしくは、哲学(美学)で扱うに足る問題であると考えます。そういう意味では、「論理というのは後付である」と言えるでしょう。科学が反証可能性の上に成り立っているのと同じように、その上にある論理も批判及び反論・反証可能だと考えます。

     

    返信

    この質問の意図は、加藤さんが仰る「必要以上に批判すれば~衰退する」という箇所が全く納得いかないからです。そんなことに関係なく、作品に力があれば衰退なんかしませんよね。
    ですので、加藤さんの批判云々の箇所は間違いですので、この場で撤回するか、もしくは合理的な根拠を示してください。
    単に自分が不愉快、というだけの話ではつきあってられませんので。



    「必要以上に批判すれば~衰退する」は撤回します。
    表現としてあまり正しくなかったと思います。「必要以上に批判すれば~個人的に拒否される可能性がある」ということですね。たしかに仰るとおり個人的な問題なのです。個人的に拒否される可能性については、ある程度ご理解いただけるかと思います。

    「作品に力があれば衰退なんかしませんよね。」そのとおりですね。少し視野狭窄になっていかもしれません。

    返信

    まず前提として、私は「プリミティブな衝動」を否定はしていません。

    当たり前のことですが、作品とは人間が作るものであり、「よっしゃ、作品作るぞお!作りきるぞお!」という気持ちが無いと作品ができるわけがありません。

    で、様々なアイデアを持ち寄って一つの楽曲を作るわけですが、そのアイデアの段階で、極めて原初的な、どこから来たのか分からないような発想も当然あることでしょう。
    ですが、それを一つの楽曲に有機的に組み込むのは、結局のところ作曲技術によって行うものであり、それは「論理」なんです。

    私は、楽譜に厳密に書きとめられた作品とは、感情の発露というよりも建築物に近いものだと思います。

    例えば、岡本太郎太陽の塔なんかは、原初的な発想から始まってはいますが、その発想をあのような何十年たっても壊れない、人間が内部に侵入しても大丈夫なように作り上げる過程においては、論理以外に入り込む余地がありません。というか、論理以外を持ち込んでは建物が倒壊してしまいます。

    ですので、論理的というのは、ある程度以上の作曲家ならば当たり前に身に着けているものであり、その上で個性だのパッションだの世界観だので豊かな作品が生まれているわけです。

    イデアだけあっても、きっちりとした形に落とし込む技術が無ければ、やがて忘れられていくことでしょう。少なくともその可能性は極めて高いわけです。

    決して、パッションを全否定しているわけではありません。