ハックルこと岩崎夏海が「言論の自由」を危機に陥らせたい理由

岩崎夏海はこのようなブロマガを書いた

「言論の自由」が迎えた本当の危機(1,914字):ハックルベリーに会いに行く:ハックルベリーに会いに行く(岩崎夏海) - ニコニコチャンネル:社会・言論

 

ハックルこと岩崎夏海が「言論の自由」を危機に陥らせたい理由があると考えている。

まず、これを読んで欲しい

 

夏目漱石 『草枕』の一文である

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故(ゆえ)に尊(たっ)とい。
住みにくき世から、住みにくき煩(わずら)いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画(え)である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云(い)えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧(わ)く。着想を紙に落さぬとも鏘(きゅうそう)の音(おん)は胸裏(きょうり)に起(おこ)る。丹青(たんせい)は画架(がか)に向って塗抹(とまつ)せんでも五彩(ごさい)の絢爛(けんらん)は自(おのず)から心眼(しんがん)に映る。ただおのが住む世を、かく観(かん)じ得て、霊台方寸(れいだいほうすん)のカメラに澆季溷濁(ぎょうきこんだく)の俗界を清くうららかに収め得(う)れば足(た)る。この故に無声(むせい)の詩人には一句なく、無色(むしょく)の画家には尺(せっけん)なきも、かく人世(じんせい)を観じ得るの点において、かく煩悩(ぼんのう)を解脱(げだつ)するの点において、かく清浄界(しょうじょうかい)に出入(しゅつにゅう)し得るの点において、またこの不同不二(ふどうふじ)の乾坤(けんこん)を建立(こんりゅう)し得るの点において、我利私慾(がりしよく)の覊絆(きはん)を掃蕩(そうとう)するの点において、――千金(せんきん)の子よりも、万乗(ばんじょう)の君よりも、あらゆる俗界の寵児(ちょうじ)よりも幸福である。

 

生きにくい世の中になった時「詩」や「絵」、つまり芸術が生まれる。

岩崎夏海はそれを潰したいのだ。

岩崎夏海リエーター塾に通って理解したことだが、彼は「構造の分析とその承継」でしかクリエーションすることができない。だからイノベーターにはなれない。

 だから、先にそのようなイノベーター的人間が出てくる前に潰してしまいたいのだ。それはブロマガ上で度々語られる「表現」へのある嫌悪感情にもみてとれる。「好奇心」や「遊び心」といったことを主な創作への原動力にする人間を嫌っている。それはなぜかというと、岩崎夏海は努力の人で、「苦しんで」彼のクリエーションである「構造の分析とその承継」を行っており、「好奇心」や「遊び心」といった心構えで創作する者へ対してコンプレックスを抱いているのだろうと考えている。

 

 なので、「表現」や彼の言う「苦しみ」を理解できないものに関して、冷たい。いや、むしろ「潰したい」と考えているのだろう。